3,後の先<後の先・・相手の動きを見切り実を以って虚を打つ> 「後の先」とは、相手が動いて初めて自分が動き勝ちを取る。ことを云う。 敵と睨み合う。我はみだりに動くことせず、安全な間合いを保ちながら相手の攻撃を待ち、相手が仕掛けてきた時点ではじめて動く。 動きとしては、敵の武器・拳足をいなすこともあるし、受け止めることもある。あるいはかわしてから間合いに入り技を決めることもある。 いずれにしても、「後の先」は、相手の出方を見て、これを捌いた後に技を繰り出すことになる。要するに自分の技は「反撃」という形を取ることになるのだ。この「後の先」は、武術の形や演武ではよく見られる。武術・武道の技術としては普遍である。 「後の先」を取る利点はいくつかあるが、安全性が最も大きい、相手と自分の体勢が五分五分である場合、先に動くことは極めて危険である。 動き=隙である。技の起こりは特に狙われやすい。 しかし、「後の先」を取る限り、そうしたリスクは背負わなくても済むのだ。また、相手は技を外されるのだから態勢的にも精神的にも不安定になる。そこを衝くのだから「実を以って虚を打つ」形になる。決まれば効果の程は云うまでもない。 「後の先」は、完璧な護りのあとに攻撃に転じる技術」といえるが、完璧を望むのは難しい問題もある。要するに動く時期である。相手の攻撃をいつまで待つかである。早く動きすぎると相手は攻撃の軌道修正が効く。誘導ミサイルの如く動いた方向に追ってくるであろうし、受けのために出した武器、部位を外しつつ攻めてくるはずである。かと言って引き付け過ぎると攻撃をまともに食うことになりかねない。 つまり、「後の先」の攻撃が成功するか否かは、自分がいつ動くかにかかっており、その見切りが各武術流派では重要な技術として位置付けられている。 七分三分の見切り> 「後の先」の攻撃を得意としている流派の一つに、上州の馬庭念流がある。樋口又七郎定次によって天正19年創始されたこの流派は、「剣は身を護り、人を助くるために使うもの」という理念の元に「護身の剣」として発展したため、先に攻撃を仕掛けることはなく、護りの後に攻勢に転じる「後手必勝」の剣を使う。 敵の攻撃を見切る時期について、「念流兵法心得」の中には、「当流に脱けという業あり、その脱の業は七分三分と知るべし、敵七分討ちだす所へ我三分なる体中剣(正眼)の正直にて、敵の太刀の右方に進めば自然に脱けることも得・・」と記されている。 このことについて、樋口定広宗家は次のように語っている。 「相手の攻撃が始まって、こちらに届くまでを十と考えた場合、六分の所で動けば、相手の攻撃は変化が可能である。八分では一歩間違えば間に合わない。三分残った時点で対処すれば相手の攻撃は付いて来ることが出来ない。後手を以って勝つには、相手の攻撃をどこまで我慢できるかが重要になるが、その目安が”七分三分”なのである。 見切った後は素早く動かなければならないのだが、馬庭念流では、そのための基木となる立ち方にも七分三分という理念は活かされており、中腰になった態勢で重心は常に後ろ足に七分、前足に三分かけられている。こうした立ち方ならば、前進する際にも重心の操作をするロスタイムがなくなり、後ろ足を強く踏むだけで滑らかに前に出ることが出来る。因みに、この立ち方は飛び上がる前のカエルを連想させることから「カワズマタ」と呼ばれているようだ。 「後の先」は言って見れば「守主攻従」である。守りが主というと、ややもすれば、攻撃主体よりヤワな感じを抱きかねないが、守ることは攻めることよりも実際には難しい。 「守ると言っても背水の陣で守るのではない。攻撃の中の守りである。」いうなれば、「積極的守り」である。これには攻撃と同等か、それ以上の勇気と強い精神力、そして技量が必要になる。そうでなければ、最初の一撃で先ず倒される。「後の先」は強者なればこそ使える技法である。 「秘伝」となる事柄 原遥平著より |